運河の街、革命の冬(江蘇・高郵市)

f:id:odrigui:20210611111327j:plain

揚州駅

 揚州駅の付近はがらんどうだった。冬の乾風は無数の塵を吹き飛ばしており、開発中の駅前広場は、その姿を我々の眼前に晒していたからである。

 この日我々は高郵を目指すためバスに乗らなければならなかった。発着のバスターミナルが揚州駅に併設されていることは、昼食を手に13時15分発のバスを待ちたい我々にとっては好都合だった。一般的にバスターミナルは駅から離れた市街中央にあるイメージがあるが、そうした類型はどちらかといえば早くに発展した都市にみられるものらしい。揚州市はといえば2004年に鉄道がようやく開業しており、隋代から名の知れたその地名に比して、ある意味新しい街と言えるのかもしれない。

 あえて近年の状況を付言すれば、2020年には高速鉄道が開業し、高架が市街を縦に貫くようになった。揚州西から高郵南、高郵と続き、はるか北京までひとっ飛びである。いや、贅言は要すまい。なにせ我々が旅したのは2018年の冬のこと。高郵まで行くにしても、いま我々はバスターミナルからバスに乗って揺られていくほかない。

 とはいえ、揚州と高郵を直接結ぶ交通網が古来よりないわけではなかった。黄河と長江を結ぶ京杭大運河がそれである。揚州と高郵という二つの都市は、物流の拠点としてその利に浴していた。今回わざわざ高郵まで向かうのも、隋代に隆盛を極めたそのままの街並みを見に行きたいがためであった。開発が進む揚州よりも、鉄道すらない高郵の方が往時の有り様を残しているように思われたので……。

f:id:odrigui:20210818085920j:plain

f:id:odrigui:20210611111447j:plain

 現地の高速バスはとにかく速度を出すので楽しい。私は三半規管が強いので本を読もうが平気だが、共に飛行機で来た同行者1はひたすら寝ていた。同行者2は現地で合流した人物であるが、右手で『きららファンタジア』左手で『ファイアーエムブレム』をやるという離れ業をこなしており、なるほど慣れっこなのかもしれない。

 バスに揺られること一時間半で高郵に着く。バスターミナルで便を見送り、泊まるホテルを目指すにあたって街を歩いてみるが、やはり先の揚州市と比べて寂しい。そもそも行政上の立ち位置からして、揚州が地級市なのに対し、高郵はその下位にあたる県級市として制されているのだから、この差は当然ともいえる。

 当日の2月9日は春節を控えた時期にあたり、至るところに正月の飾りが掛けられていた。ふと街灯の柱を見やると、李白の「黄鶴楼送孟浩然之広陵」が記されていた。中学校でまず諳んじさせられるあれであるが、現地でも小学4年で習うものらしい。さすがにメジャーすぎて、セレクトとしてはベタだろう。

 そもそもここ高郵は唐代の揚州区域の北端にあたる街であり、かつ南に位置する現揚州市が隆盛を極めていたことからみて、はるばる長江を下ってきた孟浩然がこの地まで達したのかについては微妙なところがある。見れば寒山寺(蘇州市)を詠った詩も併記されており、この詩は江蘇省が主体となって選択されたものと見るしかなさそうである。

 とはいえこうした背景は帰国後に考え付いたことであった。李白の詩を目にしたこの日の私にとって、高郵は大運河の存在が背後に見え隠れする街として印象付けられることとなる。「こだま」だけが停車する地方都市のようなものと言ったらいいか。

f:id:odrigui:20210611112907j:plain

f:id:odrigui:20210924082126j:plain

 

 我々が足を運んだ高郵博物館もそうした「地方っぽさ」に溢れた場所であった。高郵は大運河の中継地点である盂城駅を抱えており、ジオラマ展示や発掘史料が主な展示品である。加えて高郵に縁のある人物の紹介などがあったのだが、正直ボリューム不足の感は拭えない。

 張士誠は元末の人、朱元璋と雌雄を争った人物であり、出身は高郵なので地域の代表的人物と見做せよう。これはまあよい。しかし他の展示についてはいまいち縁が薄い人物だと言わざるをえない。たとえば蘇軾はたまたまここで詩を読んだことが触れられるのみといった次第で、少しでも縁のありそうな人は片っ端から取り上げようというスタンスなのだと思しい。考えてみれば、こういった大物人物が足を運ぶことができたのも、ひとえに大運河の存在あってのことなのではないだろうか。交通の便がよすぎるがゆえに、表象を明け渡たすことになったとでもいったらいいのだろうか。あるいはイメージが包摂されざるを得ない街などといったら、ちょっと仰々しすぎるかもしれない。

 余談になるが、この施設は地域の子供への教育も視野に入れているらしい。伝統的な食材の作り方を紹介する映像や、昔の遊びに興じる子供たちの像などはその目的に適うものであろう。しかし一部には無駄遣いとしか思えない設備もあり、着せ替えが楽しめる機能が付いた大型ディスプレイはその最たるものである。前に立つと画面上で様々な衣装を「試着」することができるのだが、ふざけた衣装もあったりして、あまり教育効果がありそうには思えない。とはいえ娯楽性を兼ねた機器自体は各地の博物館で目にすることができ*1、気になるところではある。

f:id:odrigui:20210820070857j:plain

大運河建設の図、模範的な悪役人ぶりがよい。

f:id:odrigui:20210611112803j:plain

 市街中央からバスに乗り、大運河のほとりまで向かうことにした。博物館で紹介されていた盂城駅はそこにある。周辺は近代アパートが並び立つ住宅地ではあったが、盂城駅との間には線引きがなされており、様相は違っていた。往時の街並みを残したその場所は国家AAAA級旅遊景区などというものに設定されていたりするのだが、どうにも寂しい。葬儀が街道に面した家で執り行われていたのが関係しているのだろうか。住宅に出入りする人などはいて、椀を手に取って湯をすすり玄関近くを歩いたりしていた。

 しばらく進み、盂城ほとりの資料館に足を運ぶことになった。この土地は中国郵政の記念碑的な立ち位置にあるらしい。詳しくないのでめぼしいものはなし。

 街区の中心にそびえる楼閣に上ることにする。こうした低層の見晴らし台は、街並みと自身との距離感というか関係性というか、とにかくそういうものがまったく断絶しないところがよい。その時私はふと、中国文学者の加藤徹が「漢文学の伝統では、高いところにのぼると悲しい感情を想起する*2」などと書いていたのを思い起こした。こうして眺めを目前にしてみると、あるいは中国の風景の何かしらもまた、開放感とは一つ違う感慨というものを楼に上る我々に与えるのかもしれないと思った。

f:id:odrigui:20210611111620j:plain

f:id:odrigui:20210611111719j:plain

 楼閣の上から戻ってきた、というには高さが無さ過ぎたわけだが、ともかく再び街区を分け入っていくことにする。街路を流れる水路は水位が高く、大河がもう少しで見えるのだろうという感じがしてくる。見れば、大運河は目と鼻の先にあった。かつての一大交通網としてはややさびしく、浚渫船があたりを行きかうのみであった。

 ほとりには高郵市政府からの告知が掲示されていた。2月10日、すなわち明日から市は花火と爆竹の使用を禁止し、違反者には罰金が課せられるのだという。春節の時期に定番の花火や爆竹を規制しようというのが市の方針のようだ。同行者によれば、こうした規制は全国的な流れらしい。この地方都市にもようやく、といった趣なのだろうか。

f:id:odrigui:20210611111804j:plain

f:id:odrigui:20210611111839j:plain

f:id:odrigui:20210924013948j:plain

 来た路とは別の通りから引き返すことにする。先ほどの通りはメインストリートで、いささか観光地向けの潤色がないではなかったが、今回の街路は生活の営みが濃い。理髪店の中では握りばさみを使った散髪が行われており、ちょうど髪長いんだからあれで切ってもらいなさいよなどと勧め合ったりする。周囲はナタネ油の香りで満たされていた。夕食時なのだろう。陽も次第に沈みかけていた。

f:id:odrigui:20210923085021j:plain

f:id:odrigui:20210923090144j:plain

 街区の入り口には北京料理屋があり、そろそろ帰国するのだからということで豪勢な夕食ということになった。同行者二人は紹興酒を楽しむ中、私はコーヒー牛乳を手に取るしかない。というのも、先日の夕食で私は酒を飲みすぎ倒れてしまったためである。次第に客席のテーブルは埋まっていったのだが、先ほどまでの街区の寂しさは何だったのだろう。ともあれ、北京ダックをつまむ。

f:id:odrigui:20210611112233j:plain

f:id:odrigui:20210611112416j:plain

 店を出ると既に辺りは暗くなっていた。春節に向けてのものと思われる飾りはぼんやりと灯っており、その曇りぐあいは周囲の煙っぽさによるものらしい。しかし、それは大気中の塵によるものではなかった。「パンパン」という爆竹の鳴る音が響き渡る。明日から花火と爆竹が禁じられるこの街では、春節を待たずして最大の祭りが行われるのである。

 タクシーに乗り、盂城駅の界隈を後にする。高郵市の市街地に着き、中国特有のあの蛍光色のネオンが辺り一面を占有するようになると、街区は一段と煙っぽさを増した。

ホテルには高速バスを降りた折にチェックインしていたので、帰宅した形になる。ルームサービスは既に行われたようで、机の上にはまるごとのリンゴと蒙古牛乳のヨーグルト、そして地方紙『揚州日報』が置かれていた。

 窓を開けるや寒風と同時に爆竹の音が入り込んできた。夜も更け音はさらに激しくなっており、街路の至る所で煙が立ち上っている。12階の窓から見下ろす市街の狂騒は、パパパパとひっきりなしに破裂音が続くのも相まって、市街戦の様相を呈するまでになっていた。『揚州日報』を広げ、りんごにそのまま齧りつく。窓近くに椅子を寄せて風に当たっていると、あたかも革命の勃発を目の当たりにする権力者になったかのようであった。

f:id:odrigui:20210611112657j:plain

【高郵で聴いていたもの】

冨田ラボ「鼓動 feat.城戸あき子」

やなぎなぎ時間は窓の向こう側

*1:迫りくる船を砲弾で撃退するゲーム(南京博物院)や兵士になって敵を撃つゲーム(寧夏博物館)が実際に目にした例。

*2:加藤徹『漢文力』(中央公論新社、2007年)25頁