水路に沈む街(浙江・新塍鎮)

 その日の朝について、私はあまりに覚えていることが少ない。杭州駅の雑踏と、過熱したかのようにグニャグニャに変形した容器に盛り込まれた、大して美味くもない駅の弁当を待合室で食らっていた記憶がおぼろげに残るだけである。中国の旅も四日目、江蘇省に位置する揚州泰州空港に降り立ち、揚州、南京を経てここ浙江省杭州市に至ったその時点において、私はようやく旅慣れの感を覚えていたのだろう。去る二〇一八年の三月のことである。

  旅の予定表を傍らにすれば、私と同行者ら三人は朝に杭州駅で時間を待ちつつ朝食を済ませ、そこから列車で同じく浙江省の嘉興市に向かったことが確認できる。ここでも私は車窓から見える景色など一切のことを記憶していない。だが、この江南地域——江蘇・浙江両省を中心とした——の地勢の特色を思い浮べれば、自ずとその景観は想像できる。

 

 中国東部の大都市圏はすなわち上海特別市を中心とした地域で、これに江蘇省浙江省を加えた一帯が長江下流にできた広大な平野部を形作っている。この肥沃な地域は古代より強勢の地として栄え、東呉の孫権から南朝の陳に至るまでの王朝が都していた。それら王朝が滅び去った後も、隋の煬帝によって造られた大運河によって中国全体の富を潤し続けた。現地で調べて分かったのだが、このあたりの湖の水深は平均して四メートルくらいしかないようである。それはまさにこの地域の平坦さをよく表しているものと言えよう。

 

 とりわけこの地域は縦横する水路によって街々が結ばれた「水郷」が多く存在する場所として一般に知られている。しかしそのような景観は多くが観光地的性格を帯びてしまっており、というのも我々日本人が好む浪漫ある中国景観などやはり中国人にとっても珍しいものに決まっているからで、だからこそ審美眼も徹底されぬままもっともらしいテーマパーク水郷が増えていくのであろう。

 純粋な水郷、といえばいやらしい響きになってしまうけれども、我々がそういうところに行きたがっているのだから仕方ないとして、そういう場所を求めているうちに目的地に決まった場所があった。それこそが我々が向かう嘉興市に存在する、新塍鎮の水郷である。鎮は行政単位を表す。

 

 嘉興南駅に到着し、我々はホテルに荷物を降ろしてから、市内中心部の巨大バスターミナルへ向かった。新塍鎮まではバスの便がある。乗り込むや否やバスは巨体を揺らして市街地の大通りを快走し、しばしばクラクションを鳴らしながらいつしか農村部を走っていた。あたりにはアヒルやらヤギやらが飼育されていて、それら家畜が車窓に現れるたびに私は同行者に知らせていたのだが、全く興味がなさげである。窓ガラスに少しづつ土気色が混ざって、また都市部に出たかと思うと再度農村に入り、また都市部の景観に入ったところで降ろされた。ここが新塍鎮の中心部らしい。

 とりあえず何か食べようということになった。ここは食の名所だというので、何か少しづつ食べながら腹を満たそうという事になって、月餅だの小籠包だのを一口づつつまんでいた。小籠包屋の女将が急に日本語で「みなさまごきげんよう」などと言うものだから、どういう機会にそのようなフレーズを覚えるものなのか不思議に思っていたら、その昔千元足らずの旅費で日本に行く機会があったのだと情報をくれたのだけれども、やはりフレーズについてはよくわからなかった。 

 

 市街中心部の交差点を東に向かうとやや鄙びてきて、もう少し歩くとあの中国特有の土気色の河が姿を現した。水郷は河を中心として成るものである。河沿いに南方を見やると水面に向かって首を向けた建築群が厳として並んでいて、なるほどこれがうわさに聞く新塍の水郷なのだなと覚えられて、そちらに分け入る路地へと足を進めた。

 雪が少し残っているものの、敷設された路地の一部は崩れて地面がその身を晒している。建物のほとんどは塗装がはげて地が出ており、「危房封在」と赤文字で記されていた。ある建物にはその赤文字に重ねてか、あるいはもともと下に書かれていたか分からないけども、マジックで「此房人居住」と記されていた。

 こういうときに喜ぶのは同行者である。彼はスラム街かのようなその街並みを夢中でカメラに収めていた。彼が一番気に入っていたのは古い理容室のあとで、彼の言によると八十年代を思わせるものなのだという。立派な門構えだったがガラスは全て割れており、政府による「危房封存」の赤文字も相変わらずだった。

 

 足を進めるにつれ、くすんだ赤の提灯が建物に釣り下がり始めるのに気が付く。見るとこのあたりは生活の色が濃いようである。鶏の毛を台上でむしるばあさんを横目に奥へ進むと大きめの建物があり、どうやらここが集会所のようである。壁面に備え付けられた黒板には通知の文字があったのだけど、古い但し書きが重なっており読み取りにくい有様であった。このあたりで同行者が唐突に、

「この辺りの老人は麻雀をするしか娯楽がない」

 と言っていたのが私はおかしく、けれども彼は笑う私を見てなぜか珍妙そうなそぶりをしていた。「いやいきなり例を持ってきたのが面白かった」と答えたら、彼は建物の中を指さし、覗き込むと本当に老人どもが麻雀に勤しんでいた。

 新塍鎮で私はずっとカメラを回しており、ある時は戯れで同行者の写真を隠し撮りして、写真にとられるのが嫌いな同行者の一人をからかっていたのだが、確かに隠し撮りした写真を見返してみると彼はじつに写真を撮られる才能がない。一番いいときは彼がスマホの画面を見ているときで、手元のものをうまく画面に収めずにうつむく顔の部分だけ捉えたならば、中国の川辺でうつむき思慮する一文人であるかのような像が撮れるのだが、それ以外はからっきし駄目である。常に写真写りがいい人というのは才能があるのであろう。つまらなそうにしている時にきれいな人はやはり美しい。

 同行者のほうに目線を戻すと、やはり彼はつまらないときにはいつもつまらなそうにしていて、そればかりか楽しいとき以外はいつも煩悶している。彼の口癖は「えっとね」「なんつうの……」「ちがうそうではなくて……」などばかり思いつくし、こういう内に向かってずっと煩悶する姿勢は人のあるべき姿だとして私はたまに畏敬の目線を送るのであるが、こういう指摘をすると彼は決まって、

「違うの、これは将棋の羽生が次の手を考えて悩んでいるときをイメージしてるの」と返してくるのが常なのだ。

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 町を進むにつれ道は細くなり、少しするとまた広くなっていった。道中路地の傍らにコンクリートの長方形の塊がそびえていて、覗き込むとそれは公衆トイレであった。床が崩落してその穴に糞便が溜まっているのが非常に雰囲気があり、それもぜひ写真に収めようと思ってカメラを構えるところまでいったのだが、日本に帰って見返したら絶対に気分が悪くなるのでやめた。

 路地と並行しているらしい河が姿を現してきた。それを見下ろすかのようにそびえていたのは、古い映画館の廃墟である。古めかしいポスターもまだそのままの形で貼られていて、その前を野犬が横切っていくのがうら寂しさを催させる。路地の片隅には真新しい道路標識が立てられていて、それによればいままでの通りは「豊楽街」というらしい。

 少し手前に石が積みあげられてできたステージのようなものがあって、頭には巨大な星の飾りがついていた。どうもこれは文革とかその時代にこの付近の住民を集めて共産主義的気合付け集会を行った場所だろうということで、我々はここを「革命広場」と名付けた。隣には新しく雀荘ができており、文革下では麻雀は禁止されていたらしいから、それを思うとこのステージと雀荘との並びはおかしくて仕方がない。 

 その隣には「嘉興地方党史陳列館」という施設があった。入ってみるとどうもこの地の旧家を改装したものらしかったが、展示の雰囲気によって外の住宅地の雰囲気と隔離されている感を覚え、というのも日中戦争あたりで撮られたらしい生首だらけの写真があったからである。庭には近所の子供が作ったらしい融けかけの雪だるまが佇んでいた。

 路地の真ん中では新たにやってきた犬二匹が先ほどの犬と三つ巴の乱闘を始めており、双方の頭とか足とかに噛みつきあっていた。河の岸には古めかしいデザインだけども、かなり新しい廊ができていた。観光地化の流れでやはりこういうモニュメントを作る方に流れているのだろう。

 そこで同行者は、もうじきこの路地の住居も政府によって取り壊されるだろうと言った。空き家が多すぎるし、手前の区画は新塍鎮の中心部に面しているのだから、景観を考えれば取り壊す方向に進むだろうとの意見を加えた。

 映画館のあたりより奥は真新しい橋が架かるなどしていたので、やはり古い水郷はこのあたりまでなのだろうと理解して、一通りあたりの写真を撮って来た道を引き返すことにした。先ほどその毛を毟られていた鶏はばあさんによってバケツでまるまる洗われており、集会の老人たちは相変わらず麻雀を続けていた。

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 新塍鎮の中心部にはバス停があって、そこでは時刻を待つ人が大勢いた。嘉興バスターミナル行のバスがくるや人々はそれに乗り、それに乗じて我々も車内に乗り込んだ。最後尾席にひとりのばあさんが座っていて、我々がその付近の席に腰を下ろすと、そのばあさんが話しかけてきた。バスの車内ではまだ一言も言葉を発していないのに、我々を何故か韓国人だと思っていたので不思議であった。

 聞くとどうもそのばあさんは先ほど我々の通った路地で鶏の毛をむしっていたばあさんだったらしい。これにはさすがに驚いたが、とはいえ我々一行がこのあたりに古い水郷を見に来た旨を伝えると、

「私たちの住む区画よりも奥にもっといいのがあるよ」

と言ってきた。その時点で嘉興市内行きのバスは発車から少し経っていた。しかし我々は先ほどの路地の奥を進むことを決め、途中下車してふたたび水郷へ足を進めた。

 三十分ほど歩くと先ほどの水郷が水面に顔を出した。二度通った道をまだ歩き、革命広場や映画館の奥をさらに進んだ。真新しい区画だと思っていた場所は、ペンキ塗りの廊や新しい橋を超えるとまた古い水郷の趣を取り戻した。しかしこのあたりの塗装はある程度しっかりしていて、空き家率も低いように思われた。おまけにあばら家のような建物ばかりだった先ほどに比べると、建物のつくりも重厚である。

 先ほどバスでばあさんは二つの街の縁起について語っていた。最初に我々が足を踏み入れた街というのは、日中戦争下の日本軍の占領によりほとんど壊された過去があるらしい。戦後にまた新しい建物が立ち、映画館や革命広場ができ、そして二〇〇〇年代になってまたあのようなスラム的景観になるといった盛衰を繰り返しているようである。それとは対照的に、今我々がいる整然とした街は建物自体も古いようで、新塍鎮人民政府によって保護もされているようである。このあたりの標識を見ると先ほど通った真新しい橋を境に豊楽街と中北大街に分かれているらしい。

 中北大街をさらに奥に進む。こちらの区画は最初足を踏み入れた地帯よりは新しいとはいえ、住宅のコンクリートの壁にうっすらと朱色で「毛主席」の文字があったりして、やはり同行者が言っていたように七十年代とか八十年代のにおいが漂っていた。その側には祠があった。説明書きによるとここにはかって屠氏という大金持ちがいて、この祠は彼を祭るものなのだという。なんというかここにきて街の核心をつかんでしまったというか、心臓部をえぐることができたような感じがしてこの時の私の気持ちは昂っていた。

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 もうしばらく歩いたら帰ろうということになった。新塍からホテルのある嘉興までのバスは日が沈むころには終わってしまう。行けるところまで行って帰ろうかということになり、また奥へ足を進めた。しばらく灰色の街を進むとまた街や河を横切る橋があったのだが、その橋は先ほど目にしたよりもよっぽど大きいものだった。高架の上をトラックや多くの自家用車が走行していて、やはりここが水郷の南端であろうということになった。引き返す前に入った公衆トイレはきれいなもので、出口からのぞいた河の流れには夕が映えており、果たして流れがあるのかというほどにその像は鮮明であった。来た道を引き返してゆく。河の方からポチャンポチャンと音がするので気になって橋から河を覗くと、どうも住民が窓から水面に蜜柑を落としているようである。集会所にいた老人たちは既に麻雀台から姿を消していた。