運河の街、革命の冬(江蘇・高郵市)

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揚州駅

 揚州駅の付近はがらんどうだった。冬の乾風は無数の塵を吹き飛ばしており、開発中の駅前広場は、その姿を我々の眼前に晒していたからである。

 この日我々は高郵を目指すためバスに乗らなければならなかった。発着のバスターミナルが揚州駅に併設されていることは、昼食を手に13時15分発のバスを待ちたい我々にとっては好都合だった。一般的にバスターミナルは駅から離れた市街中央にあるイメージがあるが、そうした類型はどちらかといえば早くに発展した都市にみられるものらしい。揚州市はといえば2004年に鉄道がようやく開業しており、隋代から名の知れたその地名に比して、ある意味新しい街と言えるのかもしれない。

 あえて近年の状況を付言すれば、2020年には高速鉄道が開業し、高架が市街を縦に貫くようになった。揚州西から高郵南、高郵と続き、はるか北京までひとっ飛びである。いや、贅言は要すまい。なにせ我々が旅したのは2018年の冬のこと。高郵まで行くにしても、いま我々はバスターミナルからバスに乗って揺られていくほかない。

 とはいえ、揚州と高郵を直接結ぶ交通網が古来よりないわけではなかった。黄河と長江を結ぶ京杭大運河がそれである。揚州と高郵という二つの都市は、物流の拠点としてその利に浴していた。今回わざわざ高郵まで向かうのも、隋代に隆盛を極めたそのままの街並みを見に行きたいがためであった。開発が進む揚州よりも、鉄道すらない高郵の方が往時の有り様を残しているように思われたので……。

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 現地の高速バスはとにかく速度を出すので楽しい。私は三半規管が強いので本を読もうが平気だが、共に飛行機で来た同行者1はひたすら寝ていた。同行者2は現地で合流した人物であるが、右手で『きららファンタジア』左手で『ファイアーエムブレム』をやるという離れ業をこなしており、なるほど慣れっこなのかもしれない。

 バスに揺られること一時間半で高郵に着く。バスターミナルで便を見送り、泊まるホテルを目指すにあたって街を歩いてみるが、やはり先の揚州市と比べて寂しい。そもそも行政上の立ち位置からして、揚州が地級市なのに対し、高郵はその下位にあたる県級市として制されているのだから、この差は当然ともいえる。

 当日の2月9日は春節を控えた時期にあたり、至るところに正月の飾りが掛けられていた。ふと街灯の柱を見やると、李白の「黄鶴楼送孟浩然之広陵」が記されていた。中学校でまず諳んじさせられるあれであるが、現地でも小学4年で習うものらしい。さすがにメジャーすぎて、セレクトとしてはベタだろう。

 そもそもここ高郵は唐代の揚州区域の北端にあたる街であり、かつ南に位置する現揚州市が隆盛を極めていたことからみて、はるばる長江を下ってきた孟浩然がこの地まで達したのかについては微妙なところがある。見れば寒山寺(蘇州市)を詠った詩も併記されており、この詩は江蘇省が主体となって選択されたものと見るしかなさそうである。

 とはいえこうした背景は帰国後に考え付いたことであった。李白の詩を目にしたこの日の私にとって、高郵は大運河の存在が背後に見え隠れする街として印象付けられることとなる。「こだま」だけが停車する地方都市のようなものと言ったらいいか。

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 我々が足を運んだ高郵博物館もそうした「地方っぽさ」に溢れた場所であった。高郵は大運河の中継地点である盂城駅を抱えており、ジオラマ展示や発掘史料が主な展示品である。加えて高郵に縁のある人物の紹介などがあったのだが、正直ボリューム不足の感は拭えない。

 張士誠は元末の人、朱元璋と雌雄を争った人物であり、出身は高郵なので地域の代表的人物と見做せよう。これはまあよい。しかし他の展示についてはいまいち縁が薄い人物だと言わざるをえない。たとえば蘇軾はたまたまここで詩を読んだことが触れられるのみといった次第で、少しでも縁のありそうな人は片っ端から取り上げようというスタンスなのだと思しい。考えてみれば、こういった大物人物が足を運ぶことができたのも、ひとえに大運河の存在あってのことなのではないだろうか。交通の便がよすぎるがゆえに、表象を明け渡たすことになったとでもいったらいいのだろうか。あるいはイメージが包摂されざるを得ない街などといったら、ちょっと仰々しすぎるかもしれない。

 余談になるが、この施設は地域の子供への教育も視野に入れているらしい。伝統的な食材の作り方を紹介する映像や、昔の遊びに興じる子供たちの像などはその目的に適うものであろう。しかし一部には無駄遣いとしか思えない設備もあり、着せ替えが楽しめる機能が付いた大型ディスプレイはその最たるものである。前に立つと画面上で様々な衣装を「試着」することができるのだが、ふざけた衣装もあったりして、あまり教育効果がありそうには思えない。とはいえ娯楽性を兼ねた機器自体は各地の博物館で目にすることができ*1、気になるところではある。

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大運河建設の図、模範的な悪役人ぶりがよい。

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 市街中央からバスに乗り、大運河のほとりまで向かうことにした。博物館で紹介されていた盂城駅はそこにある。周辺は近代アパートが並び立つ住宅地ではあったが、盂城駅との間には線引きがなされており、様相は違っていた。往時の街並みを残したその場所は国家AAAA級旅遊景区などというものに設定されていたりするのだが、どうにも寂しい。葬儀が街道に面した家で執り行われていたのが関係しているのだろうか。住宅に出入りする人などはいて、椀を手に取って湯をすすり玄関近くを歩いたりしていた。

 しばらく進み、盂城ほとりの資料館に足を運ぶことになった。この土地は中国郵政の記念碑的な立ち位置にあるらしい。詳しくないのでめぼしいものはなし。

 街区の中心にそびえる楼閣に上ることにする。こうした低層の見晴らし台は、街並みと自身との距離感というか関係性というか、とにかくそういうものがまったく断絶しないところがよい。その時私はふと、中国文学者の加藤徹が「漢文学の伝統では、高いところにのぼると悲しい感情を想起する*2」などと書いていたのを思い起こした。こうして眺めを目前にしてみると、あるいは中国の風景の何かしらもまた、開放感とは一つ違う感慨というものを楼に上る我々に与えるのかもしれないと思った。

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 楼閣の上から戻ってきた、というには高さが無さ過ぎたわけだが、ともかく再び街区を分け入っていくことにする。街路を流れる水路は水位が高く、大河がもう少しで見えるのだろうという感じがしてくる。見れば、大運河は目と鼻の先にあった。かつての一大交通網としてはややさびしく、浚渫船があたりを行きかうのみであった。

 ほとりには高郵市政府からの告知が掲示されていた。2月10日、すなわち明日から市は花火と爆竹の使用を禁止し、違反者には罰金が課せられるのだという。春節の時期に定番の花火や爆竹を規制しようというのが市の方針のようだ。同行者によれば、こうした規制は全国的な流れらしい。この地方都市にもようやく、といった趣なのだろうか。

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 来た路とは別の通りから引き返すことにする。先ほどの通りはメインストリートで、いささか観光地向けの潤色がないではなかったが、今回の街路は生活の営みが濃い。理髪店の中では握りばさみを使った散髪が行われており、ちょうど髪長いんだからあれで切ってもらいなさいよなどと勧め合ったりする。周囲はナタネ油の香りで満たされていた。夕食時なのだろう。陽も次第に沈みかけていた。

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 街区の入り口には北京料理屋があり、そろそろ帰国するのだからということで豪勢な夕食ということになった。同行者二人は紹興酒を楽しむ中、私はコーヒー牛乳を手に取るしかない。というのも、先日の夕食で私は酒を飲みすぎ倒れてしまったためである。次第に客席のテーブルは埋まっていったのだが、先ほどまでの街区の寂しさは何だったのだろう。ともあれ、北京ダックをつまむ。

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 店を出ると既に辺りは暗くなっていた。春節に向けてのものと思われる飾りはぼんやりと灯っており、その曇りぐあいは周囲の煙っぽさによるものらしい。しかし、それは大気中の塵によるものではなかった。「パンパン」という爆竹の鳴る音が響き渡る。明日から花火と爆竹が禁じられるこの街では、春節を待たずして最大の祭りが行われるのである。

 タクシーに乗り、盂城駅の界隈を後にする。高郵市の市街地に着き、中国特有のあの蛍光色のネオンが辺り一面を占有するようになると、街区は一段と煙っぽさを増した。

ホテルには高速バスを降りた折にチェックインしていたので、帰宅した形になる。ルームサービスは既に行われたようで、机の上にはまるごとのリンゴと蒙古牛乳のヨーグルト、そして地方紙『揚州日報』が置かれていた。

 窓を開けるや寒風と同時に爆竹の音が入り込んできた。夜も更け音はさらに激しくなっており、街路の至る所で煙が立ち上っている。12階の窓から見下ろす市街の狂騒は、パパパパとひっきりなしに破裂音が続くのも相まって、市街戦の様相を呈するまでになっていた。『揚州日報』を広げ、りんごにそのまま齧りつく。窓近くに椅子を寄せて風に当たっていると、あたかも革命の勃発を目の当たりにする権力者になったかのようであった。

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【高郵で聴いていたもの】

冨田ラボ「鼓動 feat.城戸あき子」

やなぎなぎ時間は窓の向こう側

*1:迫りくる船を砲弾で撃退するゲーム(南京博物院)や兵士になって敵を撃つゲーム(寧夏博物館)が実際に目にした例。

*2:加藤徹『漢文力』(中央公論新社、2007年)25頁

水路に沈む街(浙江・新塍鎮)

 その日の朝について、私はあまりに覚えていることが少ない。杭州駅の雑踏と、過熱したかのようにグニャグニャに変形した容器に盛り込まれた、大して美味くもない駅の弁当を待合室で食らっていた記憶がおぼろげに残るだけである。中国の旅も四日目、江蘇省に位置する揚州泰州空港に降り立ち、揚州、南京を経てここ浙江省杭州市に至ったその時点において、私はようやく旅慣れの感を覚えていたのだろう。去る二〇一八年の三月のことである。

  旅の予定表を傍らにすれば、私と同行者ら三人は朝に杭州駅で時間を待ちつつ朝食を済ませ、そこから列車で同じく浙江省の嘉興市に向かったことが確認できる。ここでも私は車窓から見える景色など一切のことを記憶していない。だが、この江南地域——江蘇・浙江両省を中心とした——の地勢の特色を思い浮べれば、自ずとその景観は想像できる。

 

 中国東部の大都市圏はすなわち上海特別市を中心とした地域で、これに江蘇省浙江省を加えた一帯が長江下流にできた広大な平野部を形作っている。この肥沃な地域は古代より強勢の地として栄え、東呉の孫権から南朝の陳に至るまでの王朝が都していた。それら王朝が滅び去った後も、隋の煬帝によって造られた大運河によって中国全体の富を潤し続けた。現地で調べて分かったのだが、このあたりの湖の水深は平均して四メートルくらいしかないようである。それはまさにこの地域の平坦さをよく表しているものと言えよう。

 

 とりわけこの地域は縦横する水路によって街々が結ばれた「水郷」が多く存在する場所として一般に知られている。しかしそのような景観は多くが観光地的性格を帯びてしまっており、というのも我々日本人が好む浪漫ある中国景観などやはり中国人にとっても珍しいものに決まっているからで、だからこそ審美眼も徹底されぬままもっともらしいテーマパーク水郷が増えていくのであろう。

 純粋な水郷、といえばいやらしい響きになってしまうけれども、我々がそういうところに行きたがっているのだから仕方ないとして、そういう場所を求めているうちに目的地に決まった場所があった。それこそが我々が向かう嘉興市に存在する、新塍鎮の水郷である。鎮は行政単位を表す。

 

 嘉興南駅に到着し、我々はホテルに荷物を降ろしてから、市内中心部の巨大バスターミナルへ向かった。新塍鎮まではバスの便がある。乗り込むや否やバスは巨体を揺らして市街地の大通りを快走し、しばしばクラクションを鳴らしながらいつしか農村部を走っていた。あたりにはアヒルやらヤギやらが飼育されていて、それら家畜が車窓に現れるたびに私は同行者に知らせていたのだが、全く興味がなさげである。窓ガラスに少しづつ土気色が混ざって、また都市部に出たかと思うと再度農村に入り、また都市部の景観に入ったところで降ろされた。ここが新塍鎮の中心部らしい。

 とりあえず何か食べようということになった。ここは食の名所だというので、何か少しづつ食べながら腹を満たそうという事になって、月餅だの小籠包だのを一口づつつまんでいた。小籠包屋の女将が急に日本語で「みなさまごきげんよう」などと言うものだから、どういう機会にそのようなフレーズを覚えるものなのか不思議に思っていたら、その昔千元足らずの旅費で日本に行く機会があったのだと情報をくれたのだけれども、やはりフレーズについてはよくわからなかった。 

 

 市街中心部の交差点を東に向かうとやや鄙びてきて、もう少し歩くとあの中国特有の土気色の河が姿を現した。水郷は河を中心として成るものである。河沿いに南方を見やると水面に向かって首を向けた建築群が厳として並んでいて、なるほどこれがうわさに聞く新塍の水郷なのだなと覚えられて、そちらに分け入る路地へと足を進めた。

 雪が少し残っているものの、敷設された路地の一部は崩れて地面がその身を晒している。建物のほとんどは塗装がはげて地が出ており、「危房封在」と赤文字で記されていた。ある建物にはその赤文字に重ねてか、あるいはもともと下に書かれていたか分からないけども、マジックで「此房人居住」と記されていた。

 こういうときに喜ぶのは同行者である。彼はスラム街かのようなその街並みを夢中でカメラに収めていた。彼が一番気に入っていたのは古い理容室のあとで、彼の言によると八十年代を思わせるものなのだという。立派な門構えだったがガラスは全て割れており、政府による「危房封存」の赤文字も相変わらずだった。

 

 足を進めるにつれ、くすんだ赤の提灯が建物に釣り下がり始めるのに気が付く。見るとこのあたりは生活の色が濃いようである。鶏の毛を台上でむしるばあさんを横目に奥へ進むと大きめの建物があり、どうやらここが集会所のようである。壁面に備え付けられた黒板には通知の文字があったのだけど、古い但し書きが重なっており読み取りにくい有様であった。このあたりで同行者が唐突に、

「この辺りの老人は麻雀をするしか娯楽がない」

 と言っていたのが私はおかしく、けれども彼は笑う私を見てなぜか珍妙そうなそぶりをしていた。「いやいきなり例を持ってきたのが面白かった」と答えたら、彼は建物の中を指さし、覗き込むと本当に老人どもが麻雀に勤しんでいた。

 新塍鎮で私はずっとカメラを回しており、ある時は戯れで同行者の写真を隠し撮りして、写真にとられるのが嫌いな同行者の一人をからかっていたのだが、確かに隠し撮りした写真を見返してみると彼はじつに写真を撮られる才能がない。一番いいときは彼がスマホの画面を見ているときで、手元のものをうまく画面に収めずにうつむく顔の部分だけ捉えたならば、中国の川辺でうつむき思慮する一文人であるかのような像が撮れるのだが、それ以外はからっきし駄目である。常に写真写りがいい人というのは才能があるのであろう。つまらなそうにしている時にきれいな人はやはり美しい。

 同行者のほうに目線を戻すと、やはり彼はつまらないときにはいつもつまらなそうにしていて、そればかりか楽しいとき以外はいつも煩悶している。彼の口癖は「えっとね」「なんつうの……」「ちがうそうではなくて……」などばかり思いつくし、こういう内に向かってずっと煩悶する姿勢は人のあるべき姿だとして私はたまに畏敬の目線を送るのであるが、こういう指摘をすると彼は決まって、

「違うの、これは将棋の羽生が次の手を考えて悩んでいるときをイメージしてるの」と返してくるのが常なのだ。

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 町を進むにつれ道は細くなり、少しするとまた広くなっていった。道中路地の傍らにコンクリートの長方形の塊がそびえていて、覗き込むとそれは公衆トイレであった。床が崩落してその穴に糞便が溜まっているのが非常に雰囲気があり、それもぜひ写真に収めようと思ってカメラを構えるところまでいったのだが、日本に帰って見返したら絶対に気分が悪くなるのでやめた。

 路地と並行しているらしい河が姿を現してきた。それを見下ろすかのようにそびえていたのは、古い映画館の廃墟である。古めかしいポスターもまだそのままの形で貼られていて、その前を野犬が横切っていくのがうら寂しさを催させる。路地の片隅には真新しい道路標識が立てられていて、それによればいままでの通りは「豊楽街」というらしい。

 少し手前に石が積みあげられてできたステージのようなものがあって、頭には巨大な星の飾りがついていた。どうもこれは文革とかその時代にこの付近の住民を集めて共産主義的気合付け集会を行った場所だろうということで、我々はここを「革命広場」と名付けた。隣には新しく雀荘ができており、文革下では麻雀は禁止されていたらしいから、それを思うとこのステージと雀荘との並びはおかしくて仕方がない。 

 その隣には「嘉興地方党史陳列館」という施設があった。入ってみるとどうもこの地の旧家を改装したものらしかったが、展示の雰囲気によって外の住宅地の雰囲気と隔離されている感を覚え、というのも日中戦争あたりで撮られたらしい生首だらけの写真があったからである。庭には近所の子供が作ったらしい融けかけの雪だるまが佇んでいた。

 路地の真ん中では新たにやってきた犬二匹が先ほどの犬と三つ巴の乱闘を始めており、双方の頭とか足とかに噛みつきあっていた。河の岸には古めかしいデザインだけども、かなり新しい廊ができていた。観光地化の流れでやはりこういうモニュメントを作る方に流れているのだろう。

 そこで同行者は、もうじきこの路地の住居も政府によって取り壊されるだろうと言った。空き家が多すぎるし、手前の区画は新塍鎮の中心部に面しているのだから、景観を考えれば取り壊す方向に進むだろうとの意見を加えた。

 映画館のあたりより奥は真新しい橋が架かるなどしていたので、やはり古い水郷はこのあたりまでなのだろうと理解して、一通りあたりの写真を撮って来た道を引き返すことにした。先ほどその毛を毟られていた鶏はばあさんによってバケツでまるまる洗われており、集会の老人たちは相変わらず麻雀を続けていた。

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 新塍鎮の中心部にはバス停があって、そこでは時刻を待つ人が大勢いた。嘉興バスターミナル行のバスがくるや人々はそれに乗り、それに乗じて我々も車内に乗り込んだ。最後尾席にひとりのばあさんが座っていて、我々がその付近の席に腰を下ろすと、そのばあさんが話しかけてきた。バスの車内ではまだ一言も言葉を発していないのに、我々を何故か韓国人だと思っていたので不思議であった。

 聞くとどうもそのばあさんは先ほど我々の通った路地で鶏の毛をむしっていたばあさんだったらしい。これにはさすがに驚いたが、とはいえ我々一行がこのあたりに古い水郷を見に来た旨を伝えると、

「私たちの住む区画よりも奥にもっといいのがあるよ」

と言ってきた。その時点で嘉興市内行きのバスは発車から少し経っていた。しかし我々は先ほどの路地の奥を進むことを決め、途中下車してふたたび水郷へ足を進めた。

 三十分ほど歩くと先ほどの水郷が水面に顔を出した。二度通った道をまだ歩き、革命広場や映画館の奥をさらに進んだ。真新しい区画だと思っていた場所は、ペンキ塗りの廊や新しい橋を超えるとまた古い水郷の趣を取り戻した。しかしこのあたりの塗装はある程度しっかりしていて、空き家率も低いように思われた。おまけにあばら家のような建物ばかりだった先ほどに比べると、建物のつくりも重厚である。

 先ほどバスでばあさんは二つの街の縁起について語っていた。最初に我々が足を踏み入れた街というのは、日中戦争下の日本軍の占領によりほとんど壊された過去があるらしい。戦後にまた新しい建物が立ち、映画館や革命広場ができ、そして二〇〇〇年代になってまたあのようなスラム的景観になるといった盛衰を繰り返しているようである。それとは対照的に、今我々がいる整然とした街は建物自体も古いようで、新塍鎮人民政府によって保護もされているようである。このあたりの標識を見ると先ほど通った真新しい橋を境に豊楽街と中北大街に分かれているらしい。

 中北大街をさらに奥に進む。こちらの区画は最初足を踏み入れた地帯よりは新しいとはいえ、住宅のコンクリートの壁にうっすらと朱色で「毛主席」の文字があったりして、やはり同行者が言っていたように七十年代とか八十年代のにおいが漂っていた。その側には祠があった。説明書きによるとここにはかって屠氏という大金持ちがいて、この祠は彼を祭るものなのだという。なんというかここにきて街の核心をつかんでしまったというか、心臓部をえぐることができたような感じがしてこの時の私の気持ちは昂っていた。

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 もうしばらく歩いたら帰ろうということになった。新塍からホテルのある嘉興までのバスは日が沈むころには終わってしまう。行けるところまで行って帰ろうかということになり、また奥へ足を進めた。しばらく灰色の街を進むとまた街や河を横切る橋があったのだが、その橋は先ほど目にしたよりもよっぽど大きいものだった。高架の上をトラックや多くの自家用車が走行していて、やはりここが水郷の南端であろうということになった。引き返す前に入った公衆トイレはきれいなもので、出口からのぞいた河の流れには夕が映えており、果たして流れがあるのかというほどにその像は鮮明であった。来た道を引き返してゆく。河の方からポチャンポチャンと音がするので気になって橋から河を覗くと、どうも住民が窓から水面に蜜柑を落としているようである。集会所にいた老人たちは既に麻雀台から姿を消していた。